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故中川藤一君を偲んで

近畿映画劇場 木梨正夫
9.提供会社 | 樹には望みありTOPに戻る
私は現在満六十八才を何日か越えた年令であるが、昨秋以降何とはなしに気力が衰えたのを自覚するようになった。

家内は「中川さんが亡くなったのは、半身を失ったような打撃のように見える」と何気なく言う。

まさに図星であろう。

未だ自分を取戻すに至っていない。

思えば、昭和十八年三月野砲兵幹部候補生として保定の予備士官学校入校以来、四十五年半に亙る長い付会いであった。

在校中同一区隊に属し、しかも四人一かたまりの学習机を同じくし、起床から食事、授業、訓練、自習、就寝に至るまで、朝から晩まで鼻を突き合せていた。

君は成績は常にトップを維持されたのは勿論、毎日届けられる内地からの来翰も群を抜いて数が多かった。

私には多くて週に一通、しかも父親からだけである。

このことで愚痴をこぼすと、「お前はちっとも手紙を書かんから来ないのは当り前だ。

」とすでに私の不精をみすかされていた。

内地への帰還、連隊勤務、関東地方での沿岸防禦部隊等を同じくし、終戦時には同期予備士官八十人中四人のうちの二人となっていた。

少し時日を経過した後、保定の同期生会(清苑会)を組織したのも君である。

後年私が新設の住宅建設会社の責任者となった時、率先して下請企業として参加せられ、素人の私をリードして下請会の結成、更に下請会社の金融面を保証する事業協同組合の結成及び中小企業金融公庫との契約書を主唱、指導せられ、規模の小さい会社であり乍ら、完璧な組織化をはかって頂いたことは、当時の関係者相寄ってはなつかしみ感謝する次第である。

又ロータリー活動の面では、私が仰せつかっていた第二六六地区の米山奨学委員長を何とか引継いで貰いたい一心から、地区委員をお願いし、引続き委員長となられて一年半で在任中逝去せられた。

御多忙を知りながら、無理やりお願いしたことは、私には千載に悔を残す結果となった。

まことに申訳ない。

故人には勿論、御家族の皆様に深くお詫び申し上げる次第である。