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木の香のただよう人

日刊木材新聞社 支社長  佐治成男
9.提供会社 | 樹には望みありTOPに戻る
中川藤一さんに私が最初にお目にかかったのは、昭和三十年代のはじめごろだったと思う。

私がまだ駆けだしの記者だったころ、たしか杭丸太の記事をまとめようと、当時の大正区のお店に看板をみて飛び込んだ所に中川さんが座っておられた。

何を聞き、どのような話しをしたのかはまるで覚えていないが、取材を終って社に帰り、記事を書きだすとアッという間に原稿が仕上ってしまったことを強烈に覚えている。

仕事がら色々な人にお目にかかるが、人によって本当に話しの聞きづらい人、メモの取れない人、メモは取れても記事にするのに時間のかかる人とさまざまである。

中川さんの場合はメモからすぐに記事にできるよう、駆けだしの私のフトコロを見ながら整然と話しを進めてくれたわけだった。

暖かい人間性と心配り、以来三十年ものお付合いをいただくことになったが、折にふれて思いだすのはこのことであった。

昭和五十八年の秋、その中川さんが黄綬褒章を受章されると聞いて、何はさておきお祝いかたがたインタビューに参上した。

「中川さん何かコメントをお願いします」というと、あの童顔をちょっと崩しながら「記事にしてくれるというなら、木にこだわってこだわって、こだわり抜いた男と書いてくれたら嬉しいがなア」と例によっての気配りを示していただいた。

普通のこの種のインタビューでは、かなり親しい人でも型通りのコメントになるのが常なのに、聞きたいポイントをズバリと表現してくれる。

それを個性の強さ・アクの強さと見る人もあろうけど、私にとっては天衣無縫というか、その底にある暖かさを無限に感じさせてくれる人であった。

"木にこだわる"といえば、たしかに中川さんほどの情熱をもって"木"と相対してきた人を私は他に知らない。

その著書・足跡・身の廻りすべてに木の香のただよう人でもあった。

昭和五十六年の春、中川さんご夫妻など二十名ほどの米国視察旅行団に私も参加させていただいて、ポートランドのフォレストリーセンターを見たとき「佐治君、これと同じようなものを大阪につくるつもりだ」とバスの中で話された。

木の素晴しさを形に残したいと考えられたのだろう。

その後の"ウッドリーム大阪"はその実現に向う第一歩だったような気がする。

亡くなる三ヵ月ほど前、米国フォレストリーセンターにある樹種見本を兼ねた寄付者名板を近いうちにウッドリーム大阪にもつくりたいと言っておられた。

広く資金を集めて夢を実現していく計画だったのだろう。

次は天国で、もっと大きな夢に取組んでいられるに違いない。