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戦後の大阪の馬術界の育ての親中川さんを偲ぶ

大阪府馬術連盟  名誉会長津和九右衛門
9.提供会社 | 樹には望みありTOPに戻る
初めて中川さんにお会いしたのは、戦争はなやかな昭和十六年頃関西大学馬術部の選手として関関定期戦に出場された時ですね。

お互いに阪神乗馬クラブ(亀岡教官在籍中)の馬をお借りして、団体戦をしたときから今日迄、(特に終戦後は別紙の通りございますが)馬を通じてお世話になり、無理を言ってもいつも心よくお引き受け戴き、大阪の馬術の発展の為ご協力ご支援頂いたことに今も感謝致して居ります。

特に財大阪乗馬協会の十五周年の記念式典には奥様ご同伴で御出席頂きこれ迄の思い出話しをしていたのに、はや幽冥境を異にされましたが、地上に残された御家族や私達乗馬愛好家を見守っていて下さる事をかたく信じて心からの御冥福をお祈り致します。

大阪馬術研究会の頃中川藤一昭和二十一年十一月まだ大阪駅前は闇市はなやかな頃、京都で第一回国体が開かれ馬場は宇治の木下さんの乗馬倶楽部で開かれ同時に第一回全日本馬術競技会が開催され私も中障害飛越競技で優勝したのであったが、当時はまだ故郷の和歌山県御坊市に居を構えて居り、馬も家に飼っていて和歌山県代表で出場した。

私は当時和歌山県馬匹組合の飼料工場を経営していてまだ二十六歳であった。

昭和二十二年十一月、金沢での国体では関西地区代表でリレー競技という貸与馬競技であった。

次第に海外からの復員者も多く、不況の中馬などもってのほかという時代であった。

二回金沢、三回、四回東京、五回名古屋と国民体育大会が続きながら依然大阪に乗馬倶楽部が育っていなかった。

当時、乗馬倶楽部を経営していてうまくいかなくてやめていた田島さんが大門組という馬力屋で働いており、大門組長が、田島さんが昔、乗馬倶楽部をやっていた事を知り乗馬倶楽部を始めたいが何も判らないので私の所に相談がありました。

昔の方式の乗馬倶楽部では駄目なので現代的乗馬倶楽部にするならやろうということになりました。

それではまかすからという事になり馬場を大門氏の所有土地、約三〇〇〇坪、隣接地を私が大阪木材市場株で約六〇〇坪借用して、その上に厩舎や事務所を建て大阪馬術研究会として発足したのが昭和二十五年十月頃であった。

場所は西区南堀江通五丁目の南は道頓堀川と北は長堀川の間であった。

私は馬術研究会ができてすぐ田島さんの御世話で競馬場から牝馬初菊号を購入した。

栗毛のやさしい、しかも試合になれば頑張る馬であった。

昭和二十六年広島での国体には学生に先行して馬を持っていってもらって私は出場当日夜行で福山迄行くといった商売をしながらの競技出場であった。

次年の福島での国体では山本慎一氏が、山陽で出されその時子宝に恵まれたともっぱらのうわさになったのも楽しい思い出の一つである。

その頃の新聞も復興の中の馬術という事で色んな取材にくる中で女性の水馬教育をとり上げたいという事になり、昭和二十六年夏、諏訪の森海水浴場で当時、報国乗馬倶楽部で乗っていた女性達も一緒になってサンケイ新聞社の後援で開催された。

馬と馬に乗る女性は集める事ができたが誰も水着を持っていない、衣料不足の時期であった。

そこで新聞社の力でやっと五着集めて、私が教官で始めた。

それも同じ水着ではなく、身体に水着を合わせるのではなく水着に体を合わせるのだから水馬中、水中で泳いでいて陸に近くなって、馬の上に乗ろうとすると水着が大きくずり落ちてオッパイが丸見えの笑えぬナンセンス続出であった。

私は延々二時間余にわたる馬場教官で、しかも上に何もつけずに居たものだから日焼けの為にその晩は背中が真っ赤に水ぶくれになり上を向いて寝られず丸々二日間熱を出して大変な事になった。

未だに背中の方のシミが取れないで鏡で背中を見る度に当時を思い出す。

設立当時は大門組社長が大阪馬術研究会の会長、私が専務理事となっていたが一年位で私が会長になり当時二十名前後の会員その他学生等であった。

今尚馬と関係をもっていてくれる人は、山本慎一氏、津和氏、高木氏、植田氏、井上勉氏、ナショナル証券高橋氏等である。

当時大阪府馬術連盟理事長で日本馬術連盟理事で大阪を代表して出席していたが、日本全国が不況の中であったので全日本大会の引き受け手がなく、竹田会長もお困りであったので大阪で全日本大会を引き受ける事になり学生馬術のOBの方々の御世話で昭和二十八年十月長居競技場で開催され日本馬術連盟顧問であられた三笠宮殿下が大会の為に三日間在阪された。

三笠宮殿下は軍服を改装された背広を御召しになり、大会当日の御挨拶では現在日本国民の困窮の中で馬術大会が開かれ出場できる皆さんは大いに感謝しなければならないとおさとしになられ全員恐縮した事を覚えている。

三笠宮殿下在阪三日間は私は副官の御代理を引受けて府との交渉文楽御見学の御希望もあって山城少橡師、吉田文五郎師との楽屋面会等で忙殺されたが無事大会も終了し、竹田会長を囲んで慰労会は南の宗右衛門町の大和屋で実施したが私は疲れ果てていた。

その後、初めから判っていたが大阪市の都市計画により幹線道路となって立退く事となり、当時助役をして居られた和爾さんが四高で馬に乗って居られたというので市会議員の関大先輩勝田氏に力を貸して戴いて桜宮公園内に移転が決まり大阪馬研は名前を昔の大阪愛馬会と改めて新出発とする事になった。

全日本馬術大会の翌年ハワイマウイ島の日系牧場主から日本馬術連盟へ西中尉の様にオリンピックで優勝してほしいと二頭寄贈を受け、一頭を私が貰い受け馬研で今村安先生に調教して貰ったが東京へ貰いに行った時から左前肢の膝つきが悪いので心配していたが、やはり問題が最後まで残った。

大阪愛馬会に移って私が馬を離す事になり、関大の先輩斎藤幸昌氏に続いて育てて戴く事に依頼したのだが、他に飼育したい人もいたらしくあとでもめたと聞き、私は恐縮したが早く申し込んで下さっていればもっとスムーズに行く方法も考えられたのにと今でも心に残る一つである。

その後桜宮公園の改修により大阪愛馬会も財大阪乗馬協会として鶴見緑地内に移る事になり色々な曲折を経ながら現在の立派な大阪乗馬協会となったが、又花博で一時移転の止むなき事情になってきている。

大阪馬術研究会から大阪愛馬会、それから財大阪乗馬協会と移転の度に大きくなり、会員も増えてきた。

しかしその間色々な方々の努力と援助によって発展してきた事を忘れず今ある事を感謝したい。