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追慕

三重大学教授  吉村貢
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敗戦にともない、復員したが、就職先の満州国はなく、混沌とした世情の中、幸に、近くの高校に勤め口を得、その後、三重高農の川田繁治郎先生の招きで、母校林学科の助教授を勤めることになった。

占領下のもやの中にも、時の経過につれ、次第に、自由主義・競争原理の骨幹が見えてきた。

その最たるのが、一定の学力を基礎とはしているが、英語の学力試験に合格しさえすれば、ガリオアーフルブライト法の援助により、お金なしで、米国留学が可能であった。

そこで、この試験を突破して、わが国を完膚なきまでにやっつけた米国の実情をつぶさに、この目で見、先端技術を身につけて、日本の復興に尽くそうと考えた。

必死の勉強の甲斐があって、漸く合格し、渡米することになった。

一九五六年当時、日本の外貨保有は僅か一〇億ドルで、ドル貨はとても一般の人の手に入るものではなかった。

滞在費と旅費は保証されているが、公的に交換してくれる一〇ドルの現金をもって、多少の食費や電話代等の雑費を賄いながら、米国東海岸まで行くことになっていた。

余りの不安に、何か他に手立てはないものかと、思案にくれていた頃、川田先生の紹介で、先輩の中川藤一さんが、木材貿易を扱っておられるので、頼んでやろうとのことで、当時、そごうの裏の辺りの材木街に住んでおられた中川さんを訪ね、事業用に貴重なドル貨を譲って頂いて、バークレー社から米国内支払いの小切手と形式を整えた保証状を頂いた。

これが、どれ程私に安心感を与えてくれたことか計り知れない。

このきっかけで、その後、種々、無数のお世話になりました。

昭和五九年六月、三重柿学会(同窓会)の理事会に、私は翌春退官の故をもって、副会長の辞任を申し出たところ、四八年以来会長を勤められている平野さん(昭四、和歌山)が辞任を表明され、予期してなかったので、役員の準備がなく、翌年まで留任となり、その間に新役員、会長、水谷さん(昭九、三重)、副会長、中川さん(昭十五、大阪)を迎えるよう奔走して内諾を得た。

事務局を担当する大学から副会長に飛岡教授(昭三三)を迎えた。

これには会則の改正を伴うので、四七年以降なかった総会を六十年秋母校で行った。

この機に全国の木材界で活躍中の中川さんに『流通から見た国民の木への関心』の記念講演を願い、盛会裡に終了した。

総会における役員の改選は、次期会長としての中川さんのアイデアと力量に期待した。

三重林学会の発展への祈念を込めた布陣であったが、その実現を見ずに中川さんを失ったのは惜しまれてならない。