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神谷のインドネシア点描

『懐かしい…最終章』の巻き


最後に僭越ではありますが、『懐かしい…』を締め括る個人的な心象風景、インドネシア歌謡 ”Bunci tapi Rindu(憎い、恋しい)” 的な写真を御覧戴きます。


『スラバヤ富士』
戦前、スラバヤに住んでおられた日本人の方々はスラバヤ富士を眺めては望郷の念を抱かれた事でしょう。我々1985年以前の原木屋はスラバヤ富士を眺めては体を熱くしました。スラバヤ富士、頭に雪こそ頂いてはおりませんが、まさに富士山の風格です。山の名は知りません。山の名より大事なものが後ろに聳えるより高き山々の3合目付近に在るのです。その名は、『TRETES』。日本人はテレテスと読みますが本来の発音はトゥレテス。トゥレテスと発音する人は”通”です。

カリマンタン駐在員は一度でいいから噂に聞くこの桃源郷へ行ってみたいと熱望しましたが、残念ながらスラバヤに原木は出ません。行く口実が無いのです。偶然トランシットや飛行機が故障してスラバヤ泊まりとなった方、もしくは飛行機が壊れた事にした勇気ある方のみがこの桃源郷を見れたのです。

山の中腹ですので涼しいです。貸し別荘が沢山建っているのでそれを借りて寝るのです。明け方は毛布が無ければ眠れないぐらい寒くなります。そこで夕方連れ立って毛布を買いに出かけるのです。

山の中腹に民家が沢山あります。そこで毛布を売っているのです。看板がでていないので毛布売り屋と一般民家の区別が付きません。民家に入り込んで毛布をくれ、と言って追い返された阿呆も居ました。

毛布も入荷したばかりの硬い新品から肌触りに良い使い古した一品まで選択肢が沢山あります。色も白から黒まで、そして値段もスラバヤ市内より格段に安い!
・皆が気に入る品から売れる。
・寒い朝方まで体に掛けて寝るので一旦売れたら同日内返品はナシ。売り切れ御免の毛布なのです。

選び方にコツがあります。気に入ったらさっさと買う事です。在庫が1000枚もあると聞くと、もっと良いのが出て来るだろうと期待して結論を先延ばしにしたくなります。でも、時間が経てば経つほど売れて行き、返品はナイのです。散々店を廻ったあと最初の店の品が良かった、と言って慌てて戻っても残っている筈もありません。臍を咬みたくなければ最初に気に入った時点でさっさと買う事です。後は余裕を持って同行の友人や客が決めるのを眺める事です。(後で良いのが出てきて目の前で友人に買われ臍を咬む事もありますが…)

毛布選びを終え別荘に戻ってから仲間と車座になって酒を酌み交わします。部屋には暖かい毛布が待っております。この時ほど 『男の幸せ』 を実感出来る機会は、他に有りません。何せ、『肉林を抱えての酒池』…なのですから。

朝の水浴びは冷たいです。何せ上流にある滝よりの清水ですから…。柄杓ですくっても体の何処に掛けるか迷います。足に掛けるか…、肩に掛けるか…。足に掛けると、あまりの冷たさに肩に掛ける勇気が萎みます。エイヤ!…、と破れかぶれで頭に掛けて飛び上がります。

その後に訪れるなんとも言えぬ清清しい暖かさ…昨夜の毛布の温もりと今朝の冷水、サウナ以上のスッキリです。 

一度昇れば2度美味しい、これが噂の桃源郷、『トゥレテス』、なのです。

『悔恨のMASSIKI・KAYOLAH』1988年頃(だったと思いますが…)、製材輸出に高額輸出税課税の懸念を感じた小職は、先手を打って製材品を木工化しよう!、と考えました。そして行動に移しました。

大好きなスラバヤ富士が見える麓に工場を建てました。社名はPT.MASSIKI KAYOLAH、(PMDN…国内投資法認定会社)

ヌヌカン島よりぺルプック丸太を供給してくれていた伐採業者Antony Thio氏、スラバヤへこれを持ち込んでくれた原木問屋Susantyo氏、これをスラバヤ郊外のパスルワンで挽いてくれた製材メーカーSuhardiman氏、これ等の友人を小職に紹介してくれた森林公社の偉いさん、Mulyono氏。インドネシアで知り合った気の合う友人と合弁を組み,将来の布石となる木工工場を大好きなスラバヤ富士の見える場所に建てたのです。

当時流行のモルダー工場ではなく、端材を使い切る為の集成材を狙いました。親板(木取板)をベース・モールディング(…懐かしい言葉です、当時の法規制で無税扱となっていた厚みx幅をモルダーS4Sで決めた人乾材、早い話が日本で云う『乾燥木取材』)、として輸出します。 親板ですので絶対に売れます。木取る際に発生する様々なサイズの端材を残さず処理できればこれで儲かる。当時紹介され始めたフィンガージョインターとラミネーターを購入し集成材にすれば全ての端材が処理できる、という小職の発案に皆が賛成してくれたのです。
生産アイテムは平割代替品として、500mm一目幅定尺4200mmの集成材。今で云う集成フリーボードです。まだ有り幅の天乾有り幅平割製材品が主流だった頃の話です。

失敗しました。バイヤーが居ないのです。そんな端材の寄木が売れるか!、と叱られました。平割輸入が途絶え集成フリーボードが売れるようになるには、まだ4~5年の時が必要だったのです。

MASSIKI・KAYOLAH社は解散しました。仲間の肩に大きな負債が残りました。小職がミスリードして仲間を苦しめてしまいました。スラバヤ富士を眺めて美酒に酔いしれるはずのプロジェクトが、苦労の果てに、何と大好きな仲間を塗炭の苦しみへ陥れる結果となってしまったのです。会社整理の苦労を共にしようと1991年秋、天龍木材を辞めてスラバヤに渡りました。

そこで見たものは…、大きな負債処理の過程で生じた仲間同士の疑心暗鬼、そして仲間の崩壊。張本人としての慙愧、悔恨、果ては、仲間が会ってくれない哀しみでした。今ではMulyonoさんもAntonyさんもSuhardimanさんもお亡くなられました。お詫びの仕様もありません。

MASSIKIとは…Mulyono+Antony+Suhardiman+Susantyo+Inoshita+Kamiya+Igarashi仲間の頭文字をとった造語です。因みにKAYOLAHとは、Kayu木+Olahan加工=木工です。名付け親は林業公社INHUTANI社の部長だったMulyonoさんでした。丸太伐採から端材処理まで一貫生産する画期的工場と自負しておりました。しかし現実は、若造の目論見どおりに行く程甘いものではありませんでした。夢と地獄を一緒に見た仲間を忘れ難く、独立した会社にMASSIKIと冠しました。

それから20年…、

マシキ・ジャパン社もようやくコンサルタントらしい働きが出来る様になって来ました。『植林木やプランテーション農園廃棄物を製品化する事により、燃やしたり腐らせたりして大気中に出るはずだった二酸化炭素を、製品の使用期間中だけでも地上に固定して人の役に立たせよう。そして、再植林や農園の植え替えを通して常に林地農園を光合成の旺盛な若木段階に保ち、二酸化炭素吸収力を最大限に得よう。二酸化炭素を出さないのではなく、出てしまった二酸化炭素を利用しよう』と云うエコ・ビジネスを、夢と現実の両面で語れるようになって来ました。

あの時の悔しさが20猶予年に亘って小職のお尻を押し続けてくれました。今年も12回に亘るインドネシア業務出張が叶いました。仲間のお陰だと感謝する自分が、日印の狭間で確かに生かされております。

それでは皆様、よきお年をお迎え下さいませ。


追伸)
この号をもって木工機械工業業界誌、『ウッドミック』掲載も100号目を迎えます。長い間のお付き合い、誠に有難うございました。




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