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木の家づくり・工務店ここにあり生きた茶室をつくる棟梁の技と心

街中に新しい出会いを呼ぶ茶室


●「近頃、腕の良い大工さんがいない」というのが世間一般の常識のように言われているが、実際にはまだまだたくさんいるし、次々と育ってきている。
「木のこころ」は毎号のように素晴らしい大工職人との出合いを得ている。
本誌第9号で紹介した滋賀県の仏像彫刻家・久保田唯心・御季代夫妻から、「大津にいる素晴らしい大工さんが、今度、茶室をつくったので是非見てほしい」との案内が寄せられた。
久保田さんによれば「腕は確かだし、それ以上に木を愛しているし、木を知っている」とのことで、その人はムラジさんだという。
場所は、大津市唐橋町、琵琶湖八景のひとつ、瀬田の唐橋のすぐ近く、近江牛の松喜屋さんの駐車場の奥で大通りに面し、横には京阪電車が走っている。
"侘び・寂び"の境地を求める茶室にはふさわしくないとも思える所である。
久保田さん夫妻が待っていてくれ、そこへ茶室の施主で松喜屋の主人である西居咲子さんが来、大工の棟梁・ムラジさんが来る、名刺を見ると連工務店代表・連治(むらじ・おさむ)とある。
まだ出来たばかりという茶室に入り、車座に座って取材らしくない雑談に花が咲く西居さんは、その雑談が「素敵な話し」だと言ってテープを回し始めた。
外は、街の大きなざわめきがあるのだが、茶室の中は何故か別世界で、西居さんが点ててくれたお茶を美味しく飲みながら休らいだ気分になる。
それは茶室という空間にもよるが、連さんが心を込めたつくりにもよるようだ。
●"行"から"草"へ、     伝統の技と心を見る。
連さんの造ったこの茶室には、丸太がよく使われている。
角材で目につくのは建具と落し掛けの杉材くらいで、あとはほとんど丸太である。
連さんの茶室づくりは、中柱探しから始まっている。
探し求めて納得の行く赤松皮付丸太を手に入れ、中柱が決まってから配置を考えたという。
柱はアテの錆丸太で、節を浮き立たせる面取りと下方の安定感をつくる面取りが施されている。
どの位置からどれくらいの深さで面を取るかは、木と相談できる熟練の技と言うほかはない。
赤松の皮付丸太を中柱とした配置から、廻縁はこぶしの丸太が、土壁と溶け合うように走って中柱を引き立てている。
壁は、竹小舞に荒壁を塗り、中壁を塗り上げたままで、いかにも素朴で佗びを呼んでおり、聚楽を塗るかどうかまだ迷っているというが、今は、自然な土壁が美しく仕上がっている。
床の間には年月を感じさせる北山磨丸太を框に使い、ケヤキの一枚板の床板につながる面を取っている。
床材は、ここに建っていた家(館)を取り壊した時に、父の残した家の思い出と松喜屋の歴史を形に残したいという西居さんの願いで再利用したものだった。
聞けば、寄り付きの天井や水屋にもいろいろ生かしているとのことだった。
天井を見上げると、桁は北山の磨丸太と絞丸太が通っている。
点前座の網代編みの平天井が目を引く。
掛け込み天井は柾板に竹小舞いで、少々くすんだ落ち着きのある赤味の板である。
普通よく使われるのはスギだが、それはネズコだった。
網代も、掛け込み天井の柾板を半割りよりやや細くしたネズコのヘギ板で編んだものだった。
障子を開けると掛け込み天井とつながったように長い差し庇が出ており、ネズコのヘギ板も竹小舞もつながっているようで、内と外との連続性が美しい。
下から見上げるといちばん美しく見える2寸5分の化粧勾配が長く続く心配りである。
茶室はもともと贅をつくしたものではなく、"侘び・寂び"をはじめとする和のこころを極限まで追求したもので、その地の材料を上手に生かすことにあった。
連さんの茶室は、そのこころがそのまま生かされたものだから誇張も主張もなく、素直に席に入り、空間との一体感を得られるものであった。
連さんの数奇屋の心が伝わってくるようである。
言われて気付いた連さんの数奇屋の心憎さは、腰掛け・寄り付きと、茶の湯の勝手口というべき水屋、そして茶室をセットとし、書院造りの木割りの"真"を少しずつやつしてしているところにあった。
玄関から寄り付きを"行"とし、腰かけ水屋、そして茶室を"草"へと移していることだった。
もっともそれを現しているのが、玄関から水屋の入り口までが北山丸太で、水屋の中から錆丸太へと変っている茶室には白竹の目付きタルキもさり気なく使われているが、客が座わる上座の廻縁にはスギの角材が通されていた。

●数奇屋の視点から丸太を生かす連さんの本性は数奇屋の職人だが、大津では腕をふるう機会も少ないたこともあって、そのことを知る人は少ないらしい。
県の建築組合の役員をしているが、その仲間たちでさえ知らず、茶室を建てたと聞いた仲間たちから見学の要望が次々と寄せられているという。
街中の一角に茶室を建てたのは、西居さんの願いでもあったが、連さんの心意気であったのかもしれない。
連さんの父も大工だったので、学校を出てすぐ大工の道に入った。
しかし、もう少し違う大工にと修業に行ったのが京都の数奇屋職人の店だった。
昭和38年の頃に数少ない内弟子にしてもらい、親方と寝食を共にして草庵数奇屋を学んだが、そこで学んだのは酒席の数奇屋だったという。
そこからすすんで、数奇屋の原点の茶室の修業と勉強をした。
そこには丸太という丸いものがあり、網代があり、柾板やヘギ板があって、心が引かれたという。
だから、丸太や網代や柾板・ヘギ板は、可能な限り使いたいという。
特に丸太は「表情が面白く、面の付け方でその人の丸太柱の生かし方がわかり、木への想いとセンスが出てくる」という。
「木を生かさせてもらっている」というのが連さんの木への接し方だから、とことんまでその木の味を引き出したつくりを追求し抜いているようで、その中には、書院造から数奇屋までの"やつし"の中でも生きている木割りの技術がある。
だから、寸法へのこだわりは人一倍強いようである。
差し庇の勾配と網代のヘギ板の幅もそうだし、躙口の杉戸の板2枚半も当然のこととしている。
●すべての想いを姿にした「松静庵」
連さんが、その技と建築への想いを込めてつくった茶室は西居さんが「松静庵」と命名し、書をしたためた。
その書を久保田さんが松板に彫刻し、妻側の扁額となっている。
西居さんに、出来上った茶室の感想を求めると「有難くて、うれしくて……」と絶句してしまわれた。
聞けば、松喜屋は近江牛の老舗で、昔、神戸港から船で横浜へ牛を運んだことから、近江牛が神戸牛とされた本家だという。
ここには昭和24年に、終戦のドサクサの中で、父が心をこめてつくった家があったが、古くなり、壊さざるを得なくなった。
でもこの地は松喜屋の発祥の地であり何故かしら、お地蔵さんがいたから、「お地蔵さんも祀れる何かがほしい、一族と私を養い、育ててくれた土地と家だから、父の思い出を残せるちゃんとしたものがほしい」という西居さんの願いがあった。
よく店を訪れ、馴染みだった久保田さんがその話を聞き、連さんとの出合いがつくられた。
最初から茶室をつくるということではなかったという西居さんだが、京都での女学生時代は、骨董品を探し回ったり、伝統的な建築物を見てまわったりするのが好きで、漠然と茶室への想いがあったという。
それに、お地蔵さんは、聞けば大日如来地蔵らしく、これまでに何度かお地蔵さんの力を得ており、いつも地蔵盆のお祭りもしているので、守り地蔵として祀れる何かもほしいという願いもあった。

久保田さんの家は、少し前に連さんによって建てられた数奇屋風の家だったこともあり、久保田さん、連さんたちとの話し合いの中で、この茶室づくりが現実化したという。
「街中の茶室で、静寂とは離れるかもしれないが、茶の湯を知らない人にでも見て頂けるところに建てられたのが嬉しい」という西居さんである。
だがこの茶室は、人を見る力を持っているようである。
お地蔵さんの力か、父の思い出の影響か、西居さん自身の感性の高まりによるものか、西居さんにマイナスのエネルギーを持って来る人は拒み、新しい出合いを次々と呼ぶようになったという。
然るべき建物には意志があり、力があることを茶室「松静庵」が教えてくれている。
想いは、出合いを呼び、夢は必ず実現する。
仏像を彫る久保田さん夫婦を介し、西居さんの想いを、連さんの技と心で形にした「松静庵」。
魂が生きて輝く連さんの家づくりに期待したい。

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