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木の家づくりの歴史に学

古代から続く日本の木の家づくり


●素晴らしい文化を持っていた縄文時代 日本の歴史観を根底から見直して変えるべき時に来ています。
 戦後の学校教育が教えてきた古代史が、遺跡の発掘等がすすむにつれて次々と覆されてきています。
  これから先、何が明かされるのか大変楽しみですが、少なくともいままでに明らかになっていることは、文化を持った日本史が、中国から文字(漢字)をはじめ、建築や稲作その他の文化が伝来して以降のものだという認識は完全に否定されています。
 縄文人は未開で、野蛮で、狩猟・採取・漁労によって少人数で移動しながら暮らしていたという認識の誤りは、青森県の三内丸山遺跡の発掘だけでも完全に証明されています。
 家づくりについては後で触れますが、確認されているだけでも40haの広い土地に各種施設が作られ、500人程度が大集落をなして千数百年にわたって生活していたことや、周辺には大量の栗の木や稗の一種が植えられ、これを主食のひとつとしていたことが確認されています。
 さらに、数百㎞も離れた北海道や岩手、新潟の糸魚川などの周辺地域から運んできたヒスイ、黒曜石、琥珀などを加工し、さまざまなものを生産していたことが実証されています。
 この時代にはすでに広域の流通機構が一定のルールの下で存在し、それを束ねる組織だったものがあったことを示しています。
さらに、当時の中国よりも高度な曲木技術があり、極めて高度な漆器や編布、織物の存在も確認されていますし、装身具などから、階級的な制度があり、リーダーが存在し、規則正しい集団生活(原始共産主義ではない)が営まれていたこともわかっています。
 このように、三内丸山遺跡だけを見ても、従来の教科書にある縄文観は、すべて根本から誤っていたことがわかります。
今後、さらに縄文時代やそれ以前の古代、超古代の真相が明かされ、古代から形成されていたであろう全国的な国家としての日本とそのリーダーの存在が解明されるものと思われます。
 稲作にしても、中国文化が伝来した約2000年前よりはるか以前から行われていた形跡が全国各地で発見されています。
岡山県の朝寝鼻貝塚では6000年前の稲の化石(プラントオパール)や2000年前の稲の成分が、青森県でも3000年前の炭火米が発見されています。
福岡県や佐賀県では、2000年以上も前の水路や排水口付の高度な水田の跡が発見されています。
「縄文時代に稲作はなかった」という説は、歴史の真実からは完全に否定されているのです。
 それ以上に、日本の文化の発祥が60~70万年前の旧石器時代であったことを示す宮城県上高森遺跡など数カ所で発見された遺構があります。
石器を左右対象に組み合わせて埋めたもので、儀礼的な祭りごとのためのものと見られていることを考えると、旧石器時代や石器時代の稲作や植物栽培の可能性さえ窺わせてくれます。
そのほかにも、6000年ほど前と考えられる北海道での金箔や、石川県での漆塗りの櫛なども発見されています。
 縄文人やそれ以前の我々の祖先は、極めて高度な精神文化をつくり、高度な技術で豊かな生活を営んでいたと思われます。
20世紀の古代の常識は、ひとつづつ偽りのベールがはがされてきているのです。
 漢字が伝わる以前の数千年、数万年前から日本には文字があり、文化がつくられていたことについては本誌第12号でも紹介していますが、歴史考証は別稿に譲るにしても、日本の文化の発祥は、決して中国から伝承したものではなく、日本古来のものであり、むしろ、上古代の日本の文化が世界に広がり、各地の文化を生んだり、地域の文化と合体したと考えるべきなようです。
 この視点から日本の住まいの歴史を探ると、いよいよ面白く、また、日本の家づくりが自然の摂理に従い、法則にかなったものであることが見えてきます。
●古代からあった大黒柱の思想 縄文時代は竪穴式とか横穴式の粗末な住居であったという常識がありますし、そのような遺構も発見されています。
弥生時代の農耕民族の集落として登呂遺跡などが発見されている関係で、縄文時代は、それよりももっと低劣であったと思われているようですが、三内丸山遺跡その他の発掘によって、このような風説は完全に否定されています。
 縄文時代は竪穴式や横穴式の住居も東日本を主に見られますが、基本にあったのが柱立ての思想です。
 
柱立ては、弥生時代の高床式からというのが定説でしたが、少なくとも今は、先の三内丸山遺跡によって否定されています。
ここでは、直径1m以上の栗の巨木を柱に使った高床式住居が発掘されています。
6つの柱穴はすべて4.2mの等間隔で、内側へのわずかな傾斜があり、この柱以外の材で上部が組まれ、かなりの荷重の屋根があったと調査されています。
 また、約5000年前の富山県小矢部市の桜町遺跡からは、柱と柱を組み合わせるために、ほぞ穴を削って緊結する「渡腮仕口」という建築技法を使っていることがわかっていますし、屋根がそのままの姿で発掘されています。
 これらは、縄文中期にはすでに堀立柱と木組みの住居が存在していたことと、長さや重さを量る度量衡の基準があり、それを駆使した技術があったことを示しています。
 また、縄文時代からといわれている竪穴式住居が、九州地方を中心にした後期石器時代(約3万年前以降)の遺構からも発見されています。
しかも、その中には、平地住居跡があり、木材を円錐形に組んで、獣皮や草等で屋根を覆う伏屋式平地住居も見られます。
また、壁立式平地住居や浅い床面には主柱や中央に炉をもつ伏屋式竪穴住居も見られます。
これは大阪府のはさみ山遺跡でも発見されているもので少なくとも石器時代後期から、人々が木の柱を使った住居を持って定住していたことを示すもので、従来の史観とは明らかな違いを証明しています。
 さらに縄文時代の住居には壁がなかったとされていますが、壁は石器時代にすでに見られますし、縄文早期の茨城県の今城遺跡には、寄せ棟屋根の下に斜めの壁が認められており、桜町遺跡では、細棒と薄板による綱代壁が確認されています。
縄文中期の北海道の栄浜遺跡でも壁だけでなく、入母屋造り屋根の前後には煙出しがあって、江戸時代の農家の型をすでに作っています。
壁は古墳時代からという定説もまた否定されています。
 この縄文時代の建築技法を知る上で注目したいことは、超古代の書の中に建築技法と大黒柱に関する記述があり、それが日本建築に伝承されていると思われることです。
本誌第12号で一部を紹介した「ホツマツタヱ」と類似点を多く持つ「上記(うえつふみ)」という文献があります。
この文献は「新治の記(にいはりのふみ)」を主にした何種類かの古代文献をもとに約1000年前に編纂されたといいます。
 その中には、神代の時代に宮崎県の高千穂の峰に初めに大国主命が天降り、新宮殿・新治宮の造営をしたという記述があります。
 そこには、用材の伐採と建物の中心になる中墨柱(後の大国柱)の選定、棟上祭と祝詞、家の守り神となったオゴロ神宮柱の制定と吉凶の柱占い、鳥居や屋造りの起源、屋根・棟木・鴨居などが記されているとのことです。
 さらに、大国主命が、4人の神々(命)にそれぞれの建築の役割分担を決めて宮殿造りを行わせ、このときに天の円尺、天の角尺、天の直尺、天の織尺という4種類の定規を使用させていたといいます。
 この新治宮の建築法を作った人に大国主の名が与えられたことから、後に、家の一番重要な柱を"大黒柱"と呼ぶようになったとされています。
 上古代の文献に関しては100%断定できないところもあるようですが、神代文字、古代文字があったことは間違いなく、その解読もされていることからすれば、この記述は単なる創作とは言えないものと考えられます。
 その時代からすでに建築に関する基本的な考えがあったことは驚きです。
日本建築の基本思想が大黒柱を中心にした柱立てと棟上げにはじまる木組みにあり、屋根があるという型を持っていたことになります。
 以上のことは、日本の木造技術が渡来技術だという風説を完全に覆すもので、誇れる日本の伝統文化であると言えるのです。
 屋根にしても、何種類か見られますが、5000年前の桜町遺跡その他から、茅葺きの構造で、茅の下には細い木材の上にクルミの木の皮をたくさん敷いて防水したものが出ています。
これを芝屋根とも呼ぶようですが、縄文時代の家づくりも屋根も森林の文化、木の文化であったことがわかります。
 ただし、縄文時代の重要な施設や多くの家が木造の高床式であったにしても、これがすべてではなく、確認されているものは、平地住居、敷石住居、巨大住居、高床住居、入母屋住居、寄せ棟住居などがあります。
  それ以前の50万年ほど前からの旧石器時代から縄文時代に至るまでの間に、伏屋式や周堤式、周溝式の竪穴住居、平地住居がつくられていたことを認識すべきであろうと思います。
教科書をはじめとする縄文以前の文化のすべての常識、定説、風説は基本的に間違っているということを新しい常識にすべき時代と言えるでしょう。

●高度な建築技術を持った弥生時代 弥生時代に入ると農耕が盛んになったことと抗争が生まれたことで、集落と建築がかなり変化しています。
 代表的なものに、弥生後期とされる佐賀県の吉野ヶ里遺跡に見られるような濠をめぐらせた環濠集落が多くあります。
 この集落の構成は、高床主殿と付属建物による祭場域を中心にして、長の住む高床式住居、高床式の倉庫群、竪穴式住居と工房等に区分けされています。
 弥生時代の建築を特徴づけているのは、梁間1間型の高床建築とされています。
稲作の普及に伴って高床倉庫が一般の集落にも普及したからで、平野部では高床住居の集落も出現するようになります。
この場合の高床建築は桁行が1~2間の小形なものが多く、環濠集落の祭殿などの大形なものではありませんでした。
 環濠集落の高床祭殿は大形では桁行10間、梁行4間のものもあり、西日本を中心に棟持柱付きが一般的でした。
平屋の祭殿にも大形の建築があり、鉄製金具を自在に扱う技術者と高度な土木・建築技術の存在を物語っています。
 小形の高床建築には、床を支える技法の違いで5形式があるとされますが、その内、屋根倉、造出柱、分枝、際束の4形式は、縄文時代からすでに見られるもので、弥生時代に発すると見られるのは大引貫構法です。
大引貫式には2種類あり、柱の大引仕口に中国にも見られる弥生後期の大入貫と、日本にしか見られない弥生中期のほぞ式とがそれぞれ大引材として発見されています。
 水田の開拓がすすんだことと関係しているかもしれませんが、東日本を主にした沖積平野に見られる竪穴住居は、登呂遺跡に見るような、周堤をつくって伏屋根をかける形式や周囲に溝を堀る形式とがありますが、ここでは主柱のない小形のものが確認されています。
 時代がすすんで西暦300~600年の古墳時代は群雄割拠の時代で、大規模古墳づくりを競った豪族たちの屋敷が特色を持つようになります。
祭政のための主殿・付属屋は平屋の建物、祭場の祭殿・倉庫は高床建築で、屋根は主殿が入母屋造りで堅魚木を火焔型にして棟上に飾り、祭殿等は切妻造りにするという違いを見せています。 祭殿も前期の梁間1間型高床式に対し、中期以降は総柱型の高床式が主流になり2重屋根も見られるようになります。
●本格木造建築を生む飛鳥・奈良時代 
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