第4章 白木の肌と日本人の美意識

4.白木への萌芽

前節で私は平安時代の彫刻用材がヒノキに変わる理由は、次の二つの 点を明らかにすれば説明することができるだろうと書いた。その一つは なぜわが国では木材以外の材料が、彫刻の主流になることができなかっ たかということ、もう一つは、木の中にすでに絶対的な地位を占めてい たクスノキに代わって、なぜヒノキが選ばれたか、という根拠について である。このうち前者についてはすでに述べた。ここでは後者について 私の考え方を書くことにする。
 もともと日本人は芸術的素養に恵まれた民族であったから、外来の造 仏技術を修得した後は、より高いレベルの作品の表現手法を求めたに違 いない。その目的に対して、白檀の代用材として選んだクスノキは、必 ずしも適当な材質をもつものではなかった、というのが私の意見である。  奈良時代に入って、国策に沿って鋳造仏、乾漆仏、塑造仏が発場した が、その根底には、クスノキによる木彫仏の製作に飽き足りない人たち がいたということも、考えてよいのではないだろうか。そういう立場か らすると、木彫が一時影をひそめた奈良時代は、用材の変遷のうえで重 要な意味をもつことになる。
 私は奈良末期における仏師と仏工たちを、次の三つのグループに分け て考えてみたいと思う。
(一)奈良時代に入ってもなお木彫仏づくりに踏みとどまっていた人た   ち。彼らはすでにクスノキよりもヒノキがよいことを、よく知って   いたに違いない。
(二)塑造、乾漆の芯木を造っていた人たち。この人たちもまたヒノキ   のよさが分かっていたであろう。
(三)金銅、塑造、乾漆の製作にあたっていた人たち。この人たちは新   しい材料の使いこなしに、情熱を燃やしていた。
 以上のように考えてくると、木彫の復活する潜在的な素地は十分にあ  ったといえるようである。つまりきっかけさえあれば、いつでもヒノ キによって、美しい姿を彫り出すことのできる体制が整っていたという ことである。そのきっかけは、唐から帰った最澄、空海がつくってくれ た、と考えてよいのではなかろうか。
 密教信仰の仏像は、山岳寺院の薄暗い堂宇の内部におかれ、神秘的な 力と美しさを表現するものが求められた。しかもそれは清浄で霊性のあ るものでなければならなかった。そのことは、木に精霊を認め、白木の 肌のすがすがしさにあこがれた民族本来の嗜好と合致するものであっ たから、多くの仏師たちはわが意を得たりと感じ取ったに違いない。
 貞観期の仏像には白木のものが多いのが特徴であるが、その理由を、 入唐僧が持ち帰った檀像(塗られていない木肌のままの像)の影響であ ると説く人もある。しかし私はこれらの請来仏は、後にも述べるように、 むしろ別の広葉樹仏像群の流れをつくり出す方向に、影響を与えたのだ と考えたい。広葉樹仏像群はこの時期に一時流行したが、やがてヒノキ の主流の中に溶け込んでいくことになる。その流行の動機を請来仏がつ くったと考えるほうが、自然なように思えるからである。
 いずれにしても、貞観期を迎えて急激にヒノキの木彫仏が盛んになっ たわけであるが、あの卓越した技法が短期間にできあがるとは考えられ ないから、かなりしっかりとした基盤があらかじめ準備されていたとい う背景の存在を、証明しなければならない。しかし私はこれまでに述べ てきたように、もう少し詳しく述べてみよう。
 貞観時代の代表的技法をあらわす像のの一つに、京都神護寺の薬師如 来がある。この像はヒノキの一木造で、貞観期の作品としては最も古い。 記録によれば、都が平安京に移る前年の延暦十二年(七九三年)ごろに は、すでにできあがっていたという。まだ天平文化のぬくもりが残って いたころである。平安時代のはじまりを、都が奈良から長岡京に移った 延暦三年(七八四年)からとしても、その九年後でしかない。  長い歴史の流れに沿って様式の移り変わりがあるわけであるが、その 移り変わりもある準備期間を必要とする。とすれば貞観木彫の枠ともい うべきこの像が、僅かの短期間のうちに、漆や塑土で厚化粧した天平様 式から、淡白簡潔な白木の貞観様式に、大転回したとはとても考えられ そうもない。というのは、この像には貞観期の特徴である鋭いノミさば きの「飜波式」彫法が、すでに取り入れられているからである。