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第4章 白木の肌と日本人の美意識

9.寄木造りの確立

藤原文化期についていえば、平安時代の中ごろ以降になると、彫刻の用材はほとんどがヒノキで統一されてしまうことになる。その前に当たる平安前期は、国風化の流れがおこり、遣唐使を廃止したこととも相まって、和風文化の熟成した時期であった。
 一方、藤原氏は権勢をほしいままにしたので、驕奢、逸楽の貴族文化が栄えた。それとともに、.平安遷都によってようやく押えた僧侶の堕落や横暴が、ふたたび芽をふき出したのである。彫刻についていえば鬼才の定朝が出て、寄木造りの手法を確立するまでは、貞観時代に生まれた発らつさや、力強さはすっかり精彩を欠いてしまっていたのである。 ところで寄木造りは、多くの木材を組み合わせてつくる方法であるから、次のような利点をもっている。
一つの像をいくつかに分解してつくるので分業が可能である。したがって短期間に多くの彫刻を完成させることができる。
内刳をすることが容易であるから、彫刻の狂いを防ぐのに効果がある。
 この方法を採用することによって、木彫の技法は飛躍的に発達することになった。野間清六氏は、その著書『日本美術大系Ⅱ・彫刻』の中で、「木のもつ独特の軟らかさを活かす工夫をした」ことに説き及んで「木彫の造形感覚は他の国の木彫には見られないもので、やはりヒノキという素材と、この平安中期における感覚(日本的情趣)とに密接な関係をもつものといえよう」と述べている。
 寄木の技術の導入によって、それまでは到底予想もできなかったような、自由な大きさと形状の彫刻をつくることができるようになった。従来の制約から脱け出した新しい工作法は、当時の木彫界にとっては画期的な技法であったに違いない。この方法が普及するに及んで、木彫仏の形態もまたおのずから変化していくことになった。そのことは次の例を考えれば容易に理解できることである。近年になって曲木や、ベニヤの技術が普及し、木材で自由な曲線や曲面が得られるようになった。そのため木工品のデザインは、著しく変化したのである。
 新しい材料と新しい技術とは、常に新しい美しさを創り出す。平等院鳳鳳堂の阿弥陀如来像(1052年)は、定期がその新技法を駆使して、一木彫の制約を脱し、ヒノキの軽軟強靱な特質を活かしてつくりあげた代表的な仏像である。
 定朝以降の平安後期になると、末世の業苦を造仏の功徳によってまぬがれようという思想が生まれた。そのためにこの時代は、木彫が最も盛んになったときである。『中右記』によれば、白河院の時代(1072~1129年)だけで、坐造仏は丈仏五体、丈六仏百二十七体、半丈六仏六体、等身仏三千百五十体、三尺以下二千九百三十余体に及んだとのことである。これによっても当時の木彫の盛況ぶりをうかがうことができる。
 平安貴族の頽廃と没落にともなって、やがて木彫界も新鮮味を失い、形式化してふたたび沈滞期に落ち込んでいった。そして鎌倉時代に入ると政権は武士に移り、新しい宗教運動とともに木彫も再び活気をおびてくる。貞観期、平安中期についで、三度目の復興の時期がそれである。そのリーダーシップをとったのは、南都に住んでいた定朝直系の弟子たちであった。この人たちは京の仏所のにぎわいをよそに、彫技の練磨に励んでいた。それが康慶、運慶、快慶、湛慶たちである。 彼らはすでに材料としてヒノキがあり、構造法として寄木造りがあったから、ただひたすらにノミさばきと、表現力の高揚に努力すればよかったのである。この時代に古い彫刻の補修が活発に行われたが、そのときはもはや、もとの像の用材が何であるかに関係なく、すべてヒノキを使って修理した。そのことは当時の仏像を調べてみるとよく分かることである。