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第5章広葉樹像の系譜と大陸との交流

サクラ系の源流?

 次はサクラ系の用材の導入について述べる。結論を先にいえば、私は中国から桜桃が輸入され、それが源流になって日本でサクラを使うことが広まったと考えている。桜桃とはサクラの一種であるが、それに対して、サクラもクスノキも同じ散孔材に属するから、わざわざサクラと区別しなくても、クスノキの木肌が再び見直されたということでまとめてもよいではないかという反論があろう。だが私は次の二つの理由からそれに賛成できない。一つは、クスノキは散孔材とはいいながら、かなり環孔材に近い木肌をもつので、サクラと同一に扱うのは妥当ではないということ。もう一つは、クスノキは邦産の唯一の香木であるため、ビャクダンの代用材として最初に選ばれたのであって、貞観時代の彫刻の作風には合わなかったと考えられることである。この時代には芳香への要求はすでになく、硬くて緻密ないわゆる檀材的な材質のほうが強く求められたのである。サクラは邦産材として、それに最も適したものであった。芳香を求めたのではない証拠には、飛鳥時代を除いてクスノキは近畿地方ではその後ほとんど現れてこないのである。
 さて私が調査した大和地方の仏像のうち、奈良末期から平安初期にかけて、広葉樹の散孔材で彫られたものは十数体あった。例えば奈良唐招提寺講堂の帝釈天立像、京都教王護国寺(東寺)の兜跋毘沙門天像、京都嵯峨清涼寺の釈迦像などである。ところで東寺の兜跋毘沙門と清原寺の釈迦像は、中国産の魏氏桜桃Prunus Wilsoni Koehneで作られていることが判明した(唐耀『中国木材学』中華民国二五)。そのことについては清原寺釈迦に関することをもう少し詳しく説明しておく必要がある。
 この像は東大寺の僧 奝念(ちょうねん)が平安中期の永延元年(九八七年)に宋から請来したもので、それには次のような経緯があった。当時洛東の比叡山には天台宗の延暦寺があって大きな勢力を持っていた。それに対抗して真言宗は洛西の愛宕山上に本山を建立しようという計画を立てた。それを実現するため奝念は中国の五台山清涼寺(山西省)から本尊を迎える命を受けて唐に渡り、長年にわたる労苦の後にこの像をもたらしたのである。しかし彼が帰国したときはすでに情勢が変わって反対勢力が強く、愛宕山上に登るという所期の目的を達成することができないで、不本意ながら嵯峨野の現在地に落ち着くことになった。この像は古くから三国伝来の霊像として名高く、江戸時代には京都で最も信仰を集めた像の一つであった。そのため『大和本草批正』にも「嵯峨の釈迦相伝えて赤栴檀なりと云、香ありて夏月汗を生ずと云、之伽羅なるべく、是即真の赤栴檀ならん」と書かれている。つまりインドから中国に献上された像を、さらに日本に伝えたもので、貴重な珍木で彫られているのでさまざまな奇跡があるという意味である。
 ところで昭和二十年代に従来の国宝は、重要美術品と呼ばれる格づけになり、その中から新国宝が指定されることになった。そのときこの像も新国宝にするため調査が行われたが、胎内に五臓模型が収められていることがわかり、世界最古の内臓模型をもつものとして世の注目を浴びることになった。同時に胎内から記録が出て、奝念が揚子江の沿岸の台州で造像博士張延皎に模刻させて持ち帰ったことも明らかになった。つまり三国伝来ではなくて二国伝来だということが判明したのである。 その調査のとき私もお手伝いをさせていただいたが、故京大教授貴島恒夫氏のご協力で、用材は台州付近に産する魏氏桜桃であることが判明した。なおこの像の手本になった中国の釈迦像は、釈尊を外護したことで有名なインドの抜嵯国王が、中国の五台山清涼寺に寄進したもので、牛頭栴檀の霊木に五尺の仏像を刻ませたところ、重病が快癒したといういわれがあり、当時中国において最も有名な尊像であった。奝念はこれを模刻して持ち帰ったのである。この調査をした後に、東寺の兜跋毘沙門天像が修理されることになった。それを担当された西村公朝氏から破片をいただいて調べたのであるが、これもまた中国産の桜桃であることが判明した。この像は作風からみて、中国渡来ではないかとの説があったそうであるが、材料的な立場からは中国と深い関係をもつとみてよかろう。
 さて右に述べた事実から、当時中国では桜桃が仏像彫刻の用材として使われていたことがわかった。もしそうだとすれば、わが国においてサクラ材が使われた理由は、これが源流になったのではないかという考え方が出てくる。私はそういう立場から調査を進めていたのであるが、そのことを裏付けする次のような事実がわかってきたのである。*東寺・兜跋毘沙門天像(桜桃)*清涼寺・釈迦像(桜桃)