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第7章 木材供給の歴史

11.火災と再建

こういう巨大な建物が、江戸時代に限ってみても、振袖火事の後に、本丸御殿の再建に二年七カ月をかけたほかは、いずれも火災で焼失してから、一年前後で再建されている。その数字だけを見ると、復興再建は、幕府の権力でたやすくできたように思われるが、内情はそうではなかったようである。 ちなみに、徳川時代に「江戸の大火」とよばれる焼失面積十五町(十四・九ヘクタール、ほぼ日比谷公園の広さ)以上の火災は八十数回もあったとのことである。火事は「江戸の華」というのは江戸っ子の強がりで、実は大火のたびに、木材の値段が急騰し、物心両面で、士農工商を問わず、苦しみは大変なものであったらしい。 大火のたびに飛んで来る火の粉で、江戸城もはらはらのしどおしであった。明暦三年(一六五七年)の振袖火事で、江戸城の天守閣と本丸御殿が失われたときには、その再建をめぐり、幕府は財政難と木材不足、それに加えて社会不安の高まりに苦慮した。そのため、保科正之の提案を入れて、天守閣の再建を断念し、本丸御殿はしばらく延期した。諸大名の屋敷の復興には、きらびやかな桃山様式を取り入れてはならぬという強い方針で臨み、庶民感情の爆発にこまかい予防線を敷いたほどであった。 さて江戸城の用材について述べよう。江戸城の本丸御殿と西丸御殿の増改築や再建のさい、どこからどういう材を、どれだけ運んだかの全容をつかむことはむずかしい。 徳川林政史研究所長の所三男氏は「江戸城西丸の再建の用材」(同研究所、昭和四十八年度研究紀要)という研究論文で、天保九年(一八三八年)に焼失した西丸御殿の再建用材について考証を試みられているので、それを引用させていただくことにする。 所氏によると、用材献上の筆頭は尾張藩である。同藩は少なくとも、尺〆にして五万本以上のヒノキを献上した。紀州藩は大材三百五十本とあるが石高は不明。水戸藩はマツ一万本。この中には長さ五間、末口一尺五寸くらいのもの二百五十本、長さ十間、元口三~四尺のもの三本が含まれているから、相当の大材のみと考えてよいであろう。 南部藩は長さ六間~三間半、一・五尺~一尺角のヒノキ材一万本(この内訳は、四方無節千本、三方無節三千三百本、二方無節、節物五千七百本)を献上、このほか、天領の飛騨山からも推定で五万本以上運んで来ている。そのほか幕府の手持材や江戸市中からの買付材も少なくなかった、ということである。『甲辰雑記』の記載などからみると、西丸御殿再建の建坪は総数六千五百七十四坪あまり、使用材は本尺〆八万二千六百九十本余、板類尺〆四十五万七千五百九十枚という。板類十枚を本木の尺〆一本とみると四万五千七百五十九本になるから、本木にした総材積は尺〆にして十二万八千四百九十本余になる。これは製材した材積であるから、その前の素材(丸太)の材積に換算すると、およそ二十五万尺〆になるだろうと推定しておられる。 しかもこの中には、大御所家斉の「お座の間」に使われた長さ十六~十八尺、六~八寸×六~七寸角のヒノキの柱四十六本があり、さらに「芯去り無節・四方柾」といった無類の上物がかなり含まれていたという。このように見てくると、量的にも質的にも、この建物に使用した木材は莫大なものであったことがわかる。 本丸御殿は西丸御殿の二倍に近い広さで、増改築と再建は六回もあったというし、また西丸御殿はそれが八回に及んだということである。したがって江戸城だけに限っても、そこに使われた木材の総量は、想像をはるかに超えるものであったことがわかるのである。*半世紀以上前の「宮城」(皇居)