第7章 木材供給の歴史

3.木材輸送に果たした木津川の役割

藤原京ののち間もなく、元明天皇三年(七〇九年)には平城京の造営 が始まることになる。これは唐制にならい、長安の都を範とした都市計 画であったから、それに要した木材は想像以上の莫大な数量に達したと 思われる。その事情については、あとでこの時代の代表的遺構である南 都東大寺について説明するが、東大寺だけを見ても、これに要した建築 用材は驚くべき量にのぼるものであった。
 ところでこのような莫大な量の木材を、どこからどのようにして供給 したのであろうか。すでに奈良朝のはじめころ、大和平野の四周の山林 は伐り荒らされて、木材資源は不足していた。そのことについては前に も記したとおりである。木材は運搬が困難であるから、できるだけ近い 地方で求めようとしたのであろうが、何分にも奈良は盆地であるから、 四周の山を越えて運ばなくてはならない当時木材運搬のために採られ た方法は、木をばらばらにして川を流す管流しか、筏に組んで流すやり 方か、または舟による運搬であるから、いきおい川が重要な役割を果た すことになる。
 そうした条件のもとで、大きく役立ったのは木津川であった。木津川 は伊賀国の流れの大半を集め、大和の流れを合わせて、笠置から木津に いたり、北に折れて淀に達しここで宇治川および桂川と合して淀川とな り、大阪湾に通じている。このような地理的条件をもつため、後世にい たるまで、大和地方の主要な輸送路の一つとして、経済上に大きな貢献 をした川であった。そのため主要な木材の供給地は、木津川に通ずる琵 琶湖沿岸の近江地方と、丹波および伊賀地方になった。距離的にいえば、 むしろそれよりも近い紀伊、播磨、四国地方の木材があるが、それが用 いられなかったのは、輸送のむずかしさによるためであった。
 木津川は昔は泉川とよんでいた。現在の木津町も古い呼び名は泉津で あった。百人一首の「みかの原 わきて流るる泉川」と詠まれている泉 川は、いまの木津川のことであり、みかの原は木津の対岸にあたる場所 の地名である。泉津は川が東から流れて来て北に折れる彎曲点にあたり、 当時は奈良から京都地方に通ずる要津であった。そのため木材の集散地 として繁栄し、ついに木津と呼ばれるようになり、泉川もまた木津川と 名前が変わったのである。このように町や川の名称まで変わったことを みても、この川が木材の輸送にいかに重要な役割を果たしてきたかを、 推察できるであろう。
 さて木津川に集められた木材は、奈良坂を越えて奈良に運ばれた。奈 良坂というのは、今日のいわゆる奈良坂ではなくて、歌姫越のことであ る。この輸送路はすでに藤原京のころから始まっていたようであるが、 のちに次第に盛んになって、大仏殿建立のときには、前後三回にわたっ てこれが利用された。この輸送路があってはじめて大仏殿の造営が可能 であった、といって、決して過言ではないであろう。
 ところで木材の供給であるが、はじめのころはまず木津川の上流で木 を伐採していたのであるが、のちには遠く中国、四国、九州などからも 木を求めるようになり、大阪湾に着いた後は淀川、木津川を通って、奈 良に運ばれた。そのことについてもう少し詳しく説明しよう。
 有名な大和長谷寺の本尊十一面観音像の造顕由来の伝説によれば、近 江国高島郡の白蓮華という渓谷に、長さ十余丈のクスノキの古木があっ て、これが大雷雨によって流れ出た。木津の浦に漂うこと六十九廣、の ちに大和八木の里に運ばれ、さらに当麻に移され、長谷の河畔に放置さ れていた。その材から天智七年(六七八年)に仏像が彫られたというこ とである。この木は前記の経路をへて、大和に運ばれたものと考えてよ い。
 さらに『続目本紀』によれば、西大寺の西塔の材料は、近江国滋賀郡 から運んだと書かれている。また法華寺金堂の用材は伊賀地方から求め たが、それと同時に、丹波と琵琶湖北岸の高島地方からも運んだことが、 正倉院文書に記されている。これも木津経由である。
 このように時代の推移とともに、木津川を利用する木材の需要はます ます増加し、周囲の森林は次第に荒廃することになった。そしてその後 の長期にわたる濫伐で、さしも美林を誇った江州や伊賀の森林も、つい に今日のような貧弱な姿になってしまったのである。ことに田上山は、 今日では砂防工事の代表的な禿山になっているが、そのむかしは遠く藤 原京にまで運ばれたほどの優秀なヒノキを、多量に保有していたことは 前述したとおりである。こうした淀川上流の莫大な木材の伐採は、やが て山林の荒廃を招いて土砂を絶え間なく流出させ、ついに今日の大阪の 土地がつくられることになったのである。