製材(水力式製材)

時代を経るにつれ製材所も技術的に進み、電気モーター式が火力製材所にとって
代わった。が、その後は林業そのものが急速に衰え、昭和14、15年ごろ、
大規模な白川又製材所さえ30年余にわたる開発の歴史に終止符を打った。
今日、各地の製材所跡には鉄材の残骸が無残に捨てられている。痛ましい。


さて、私の故郷、熊野市五郷町の柿平では昭和12、13年ごろまで水車式製材所
が嫁働していた。そのもようを紹介しよう。
製材所から1キロほどの湯之谷川の上手に堰を築き、そこから水を引いていた。水
路の先端150メートルばかりを、図のように高架桟橋式水路にし、大きな水車を回す
仕組みになっている。プーリをつけた水車の心棒が建物内に直結し、別に据えつけた
プーリに乎ベルトで連結して回転速度を増す。同時に馬力を上げる。
製材所には今日のような帯鋸はなく丸鋸だけである。一本の材木を製材する場合、
腹押し、鼻取り、ロクロ巻き、耳摺り、長短切りに分類される。腹押しは、図のよう
に材木の切り口を腹に当てて鋸に向かって力任せに押していく。こちら側では、引き
割られてくる材木に鳶ロや鎹(かすがい)を打ちこんで引っ張り、腹押しを助ける。
これを鼻取りという。


太い材木の場合、腹押しの手元あたりで、ロープを鐶でとめ一方でロクロを回して腹
押しを補助する。これをロクロ巻きという。
鋸台はローラーになっており、材木が鋸台に引っかかっても抵抗なく進む。だいたい
腹押しのところでよい部分が耳(板の両脇)をそろえてくるが、こわ(材木の周囲)の
かかっている部分は耳をそろえなければならないのである。


腹押しは製材工のなかでもっとも技術を要する。昔は製材工のことを職工と呼び、
従事者は一流の職工をめざした。だが一人前の職工になるには年季がいる。大工、左
官、桶職人など、職工にかぎらず技術を要する職業は小学校を出るとすぐ住み込みで
弟子入りする。そこで家事を手伝いながら無報酬で五年間、びっしりと仕込まれる。
日曜日もなく休みといえば、祭り、節句、彼岸、盆、正月くらいである。苦労と年季
をかけて一人前に仕上げられる。五年の年季が明けてもなお一年間、無報酬の御礼奉公
が習慣になっていた。話は少しそれたが、火力製材に切り替わってから職工は徐々に
通い弟子が多くなり、安いながら弟子にも日当が払われるようになった。その後は
腹押しは次第になくなり、主としてハンドル使い、分出し、鼻取りに分けられるように
なる。さらに電化と同時にハンドル使いと分出しを一人で受け持つょうになる。
世の移り変わりとともに、すべてで機械化と技術革新が進み仕事が楽になった。