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中川藤一さんの思い出

加藤林業建設株  取締役社長 加藤誠蔵
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私は広島緑友会のメンバーです。

広島緑友会の歴史は割に古く、今から31年前に遡りますが、その緑友会に大阪木材青年経営者協議会から呼びかけがありまして、昭和35年10月大青協の西本会長、中川副会長、河田、成瀬、深尾の各氏が来広され、我々広島緑友会のメンバーと懇談を致しました。

そしてその席上全国木材青壮年団体連合会と云う我々青壮年の木材業者の会があのるでそれに入会しないかと云うことでした。

この勧誘が引き金になりまして当時広島に夫々別個に結成されて居りました、緑友会、緑榮会、材青会、広島木材新進クラブなどの諸団が発展的に解散して、昭和36年3月広島木材青年経営者協議会が結成される運びとなりましたが、その名の通り大阪木材青年経営者協議会の名称をそのまま使わせていただいたわけで、私共の広木青協の初期の段階では大青協さんの影響が非常に強く働いて居ります。

そして昭和36年10月名古屋市で開かれました林青連の第6回の総会にオブザーバーとして出席した広木青協の古久保、林、村中氏等が、来年度の第7回総会を広島で開催するよう無理やり押しつけられて帰りまして、一時は随分議論が沸騰したものですが今は亡き田中眞一郎氏の決断によって引受ける事に決定、之亦今は亡き和泉昭二君の名企画などありましてお陰様で非常な盛会裡に終了することが出来ましたが、その時中川大青協会長より実行委員長の田中さんにねぎらいとお礼の言葉をいただいたように記憶して居ります。

昭和51年6月日本木材同友会の仲間で札幌の羽磨氏御夫妻のお世話で北海道を旅行しました。

釧路空港到着、阿寒湖、弟子屈、硫黄山、摩周湖、羅臼と道東を4日ががりで廻り林青連の第21回総会に合流したわけですが、佐徳正徳御夫妻。

京都の若山、伊藤、狩野氏などと我々夫婦が一緒でした。

中川さんも当初は御夫妻で参加される予定でしたが、御母堂の御容態が悪く単身で参加されて居まして、確か阿寒湖畔の宿まで御一緒したように思うのですが、お母さんの御容態が悪化した為、心を残して急遽帰阪されました。

その前後の中川さんの言動を拝見して、何と中川さんはお母さん思いなのだなあ……と独りで感心したものでした。

私も日本木材同友会の月例会には以前は割に良く出席して居りましたが昭和61年5月に広島県木連の会長の役をお引受けしてからは結構その方の用事で時間がとられる事が多くなり、木材同友会の例会に出席出来にくくなりました。

しかし昭和62年6月5日、日本木材同友会の例会が中川さんのお世話で大阪で開かれる事となり私は久しぶりに参加致しました。

同日11時40分新大阪駅千成びょうたん前に集合。

マイクロバスで美原木材工業団地へ行き、中川さんの案内御説明でウッドリーム大阪を見せていただきました。

その時美原木材団地敷地内のウッドリームの隣りに簡易郵便局も開設して居られ、中川さんは会社の出す郵便物は勿論の事、私的な郵便物その他一切その郵便局を利用するのだと云う事で、私共一同中川さんの美原木材工業団地協同組合の運営にかけられる情熱に対して全く頭の下る思いがしたものでした。

そのあと一同はマイクロバスに乗って羽曳野市にある大阪府農林技術センターを見学させていただき、次いで岸和田市にある臨海会館をみせていただきました。

この中川さんに御案内いただいた三ヶ所の建物はいづれも大規模木造構造物でして、中川さんはどこでも笑顔で、しかし熱心に色々と説明していただくと共に建設に当っての苦心談なども交えて話して下さいました。

結局私共一同マイクロバスで亦新大阪駅まで送っていただき解散したわけですが、私にとりましてはそれが中川さんにお会いした最後であったような気が致します。

昨年9月6日、岐阜市で第23回全国木材業者大会が開かれまして、その席上宮崎の古本さんから中川さんが急逝された事を聞き愕然として返す言葉がありませんでした。

確か私より2つ位多いだけでまだまだ木材業界の為に活躍していただかねばならない人でしたのに……。

只々御冥福を祈るのみです。