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中川さんと私の兄

東洋木材新聞社  島崎良平
9.提供会社 | 樹には望みありTOPに戻る
人生には多くの人々との出会いがあり、そして別れがある。

生者必滅会者定離とは言え別れはつらいものである。

私が中川さんと初めてお会いしたのは昭和廿五年の春、西長堀の和洋林産の事務所だったと記憶している。

ご先代の中川計三郎氏と懇意だった父と同行したときであった。

その後、中川さんとは大青協や日綿建友会の会合で度々お目にかかった。

大正区難波島の会社で松バイリングを主体に活躍されていた頃の姿が想いおこされる。

昭和廿八年七月十七日、中川さんの郷里"御坊"を襲った水害で地元の製材工場が大きな被害を受けた。

その被災地の模様を取材に出掛けた私は、泊る宿もなく一夜を被害軽微だった中川家でお世話になった。

総ヒノキ造りのご本宅は「日高御殿」にふさわしい立派なお住まいで、室内の調度品の一つ一つに旧家らしい品格と落着きが感じられた。

駆けだしの記者だった私は、立派な座敷に通され何か場違いの処へ来た感じで極度に緊張し熟睡できなかったことを覚えている。

十日会のメンバーだった兄とは特に親しく肝胆相照らす仲であった。

例の筆禍事件では失意の兄を力づけ、陰に陽に励まし支えて戴いた。

中川さんは人情の機微に触れ、後輩の面倒をよく見る思いやりの深い人だった。

工場団地の理事長に就任されてからは身辺つとに多忙な毎日だったろうと推察する。

加えて間伐小径木需要開発協やログハウス振興会などの会長として全国を飛び廻り、まさに東奔西走の日々だったと伺っている。

昭和六十三年夏の終りに畢生の事業の地美原で会議中に倒れられ入院。

昏睡から醒めることなく九月五日、ご遺体が豊中の自宅に戻られた夜、輝子夫人が『本当に安らかな顔をしている…』と洩らされた言葉が忘れられない。

昭和五十四年の晩秋、兄三四郎が忽然と逝った。

中川さんを始めとする十日会の皆さんのお力添えで追悼集「三ちゃん」が一周忌に完成した。

そして九年後の初秋、中川さんもこの世を去った。

兄が「早かったじゃないか…」とびっくりして中川さんを迎えたことだろう。

本紙の新年号"白浪五人男"に「赤星十三」で登場して戴いた一文を掲げ追悼文の締めくくりとしたい。

またその次につらなるは生れは木の国御坊在三重高農から関大に通う千里の山越えて打ち込む杭は難波島移る渡世も岸和田から広瀬を渡り橋本に托す葵のプレカット苦労の甲斐の十年は照る日に映える丸山に昇る日生川西で拓く黄金の街づくり育つ若葉の九代目波おだやかに順風を受けて心は日本晴れ勉強小僧の中川藤一合掌