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歴史の中の広葉樹

古代社会の広葉樹 7世紀から12世紀に至る古代国家成立以降の社会では、広葉樹は飛鳥時代にヨコギリ鋸が登場するという木材加工技術の発展によって、多くの樹種が多方面に利用されるようになった。
それまでのスギとクスノキなど限られた広葉樹という図式から、貴族文化を反映したヒノキの賞用と、常緑のカシ、落葉のケヤキなど多くの堅硬な樹種を加えていったのである。
奈良時代後期には、ケヤキの品質が高く評価されて寺院建築から、指物、挽物、寄木、彫刻等に使い分けられた。
満久崇麿氏の「木のはなし」(昭・58)によると、飛鳥時代には木彫仏はほとんどクスノキであったが、奈良時代には金銅仏が主体となり、木彫仏はヒノキに変り、伎楽面がホオノキ、キリ、クスノキからヒノキへと変ったという。
この当時の用材パターンでは、たとえば建材にはヒノキ、木像にはクスノキであったものが、建材にケヤキ、木像にヒノキという風に変って行くなど、ヒノキの入手難が感じられると同時に、広葉樹の適材利用が認められるという。
成田寿一郎氏の「木の匠」(昭・59)によると 和名類聚抄(源順、931ー938)に、奈良時代に良く知られた落葉広葉樹として、ナラ、クヌギ、ケヤキ、ニレ、トリネコ、カバ、カエデ、カツラ、サクラ、ホオノキ、イイギリ、ヤナギ、エンジュ、アズサ、マユミ、ウツギ。
常緑広葉樹として、イスノキ、ツゲ、カシ、ツバキ、クスノキ。
外材として、シタン、センダン、ビャクダン、スオウなどが挙げられている。
当時知名のこれらの樹種の中に、唐木類が入っておりながら、トチノキ、クリ、クルミが欠落していることは大変興味深い。
あるいは、木の実のなる樹木は立木として利用する伝統が生きていて、木材として挙げられなかったのかも知れない。
奈良時代の宝物を納めた正倉院御物の中の木について、竹内碧外氏の作成した「正倉院木材材鑑目録」には、落葉樹としてカキ、クワ、ウメ、サクラ、ケヤキ、ムクノキ、カエデ、ナツメなど25種、常緑樹としてクスノキ、イスノキ、ツゲ、ツバキ、カシなど11種、他に針葉樹7種、計43種が挙げられているという。
以上木材の工芸的利用の面からとりあげたが、古代社会の膨張、発展の中できわめて重要なものに、広葉樹のエネルギーとしての役割がある。
農耕社会の文化を推進したものは、イネであり、鉄であり、塩であり、陶器であり、これらを産みだした薪炭材・燃料としての広葉樹であった筈である。
この時代、森林破壊の激しかった西日本の常緑広葉樹(照葉樹林)地域が、すなわち文化の進んだ地域であった。
封建社会の広葉樹 源頼朝が鎌倉幕府を創設した12世紀はじめ、封建体制が成立した。
封建制は支配者が従者に身分、権力を保障し、従者は支配者に忠勤をはげむという体制である。
台頭した武士は、地方の土豪、農民に基盤をおくものであったから、外へ向っては覇権の争奪を画策しながら、内へ向っては農業生産の充実に意を用いねばならなかった。
従って、この農民・農耕を支えるものとしての農用林(里山の広葉樹林・雑木林)は封建社会にとって不可欠の森林であった。
刈敷、草木灰、牛馬飼料、製塩、製陶、炊事、採暖など万般にわたり広葉樹は、武士の地域的割拠体制、自給自足的体制のもとで、きわめて重要な役割を担っていたのである。
里山広葉樹林は、農耕生活のパートナーとして温存重用された二次林であるが、さらに各地の農耕社会で、その風土ごとの特産物生産用、いわゆる特用樹として盛んに殖産奨励された。
時代が下がり、貨幣経済がより広域化するにつれて、地域における特産化が加速されていった。
目ぼしい物を摘記すると、落葉樹として、クワ(生糸)、コウゾ(紙)、ウルシ(漆器)、キリ(油)、ハゼ(木蝋)、クルミ(実)、カシワ(鞣剤)、キハダ(生薬)、クリ(実)、ミツマタ(紙)、ガンピ(紙)、クロモジ(油)。
常緑樹として、チャ(茶)、ツバキ(油)、クスノキ(樟脳)、ヤマモモ(染料)、サザンカ(油)、などがある。
広葉樹は多種多様であり、このように衣食住にわたり生活必需物資を色々と供給する機能をもつ樹木なのである。
漆など現在でもすぐれた塗料として賞用されているが、当時は民需ばかりでなく、武具、武器など軍需としても重用された。
室町時代にタテビキ鋸が開発され(成田)、それまでの割って使う木の利用から、タテに挽いて使う利用がはじまり、広葉樹・いわゆる堅木の加工の幅が飛躍的にひろがった。
日本における広葉樹の木の文化は、その種類の豊富さにもとづき、ヒノキの文化、スギの文化とならんで、重要なもうひとつの木の文化というにいうにふさわしい。
漆器、和紙、寄木細工、木工芸など日常性の木の文化は広葉樹なくしては成立せず、これなくしては江戸期の豊かな庶民の暮らしは成り立たなかったとも言われている。
縄文に発し、弥生に伝承され、古代社会を経て封建社会、とくに江戸時代に大成したと思われる広葉樹の使い分けの妙による木の文化は、大日本山林会編「木材ノ工芸的利用」(明・45)に詳述されている。
近代社会の広葉樹 明治初期、地租改正によって奥地の広葉樹林の多くが国有林となったが、藩政時代の治山治水、山を守る方針は継承された。
滔々たる西欧化は進んだが、農耕社会の伝統的な暮らし方は変らず、「農は国の大本」として位置づけられ、従ってパートナーたる里山の農用林は依然重要な役割をもちつづけた。
しかし一方、富国強兵の波は色々な形で広葉樹林に波及し、新しい利用分野と樹種が浮上した。
日清・日露戦争後は、軍需的用材、船舶用材としてケヤキ、クリ、火薬用のハンノキ、銃床用のオニグルミ、鉄道枕木用のクリ、鉄道防備林にヤチダモ、ドロノキ、雪崩防止林にニセアカシアの導入などがはかられた。
建築用材としては、生産性を重んじる観点から針葉樹育成が主テーマとなり、都市の緑化木なども和風から洋風へという都市型生活の雰囲気からか、在来のケヤキ、クスノキにならんでプラタナスなど多くの外来種が導入された。
この時代、前代まで特用林産物として殖産奨励されていた多くの広葉樹由来産品が、あるものは輸入品に圧倒され、あるものは合成化学品に代替されて姿を消していった。
クスノキの樟脳、アブラギリの桐油などがその例である。
縄文以来約1万2千年、とくに弥生以来約2千年培養され利用されてきた広葉樹の役割は、僅か100年余りの間に脆くも崩れ去ってしまったのである。
昭和時代、戦後とくに昴進した工業化社会へ脱皮の課程で、この傾向は決定的となった。
さらに日本農業の一環として連綿と生きつづけてきた里山の広葉樹林は、昭和30年代の燃料革命によって致命的な打撃を受け、その重要な使命を喪失した。
農業自体も機械化、全肥化、農薬依存とさま変りしてしまったのである。
弥生以来、くり返す伐採に耐え、農用、生活用、環境用、文化用として日本人の暮らしを支えてきた広葉樹林、この再生力の大きいパートナーを、今こそ正しく見直すことが必要である。

 

プロフィール 岸本 潤(きしもと じゅん)大正14年、鳥取県に生まれる。
昭和23年、京都大学農学部林学科卒。
鳥取農林専門学校から鳥取大学に移り、助教授、教授、 農学部長を経て、平成2年に退官。
現在、農学博士、鳥取大学名誉教授。
主に広葉樹に関する研究を続け、未使用広葉樹の有効利用や木材の化学的識別に関する研究等の論文を発表。
平成3年、広葉樹文化協会を設立し会長となる。
著書に「スギの研究」分担執筆 (養堅堂)、「広葉樹と日本人」(牧野出版)がある。
俳句の造詣も深く、砂郷の号で親しまれている。

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