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第4章 白木の肌と日本人の美意識

1.奈良時代の彫刻材料

奈良時代はわが国の仏教芸術に、もっとも美しい天平文化の花を咲かせた時期であった。この時代は唐の影響をまともに受けたときであったから、仏像もまた多くの優れた作品が生まれた。しかしそれらは乾漆、塑造、金銅であって、木彫はあまり造られることがなかったのである。 日本民族が木ときわめて強い結びつきを持ってきたことや、日本彫刻史の中で木彫が主流を占めている実情から考えると、この時代に限って木彫がほとんど見られないというのは、いかにも不思議な気がする。この事実をどのように受けとめたらよいであろうか。飛鳥時代を支えて活躍したあの木彫師たちは、どこへかくれてしまったのであろうか。この疑問について考察してみたい。
 まず考えられることは、古い時代には芸術家や工人たちは、洋の東西を問わず時の権勢の庇護のもとにあって、作品をつくり生きていたということである。奈良時代は大陸文化を受け入れることが、国の大方針であり根幹でもあったから、彫刻は官営の仏所が中心になってつくられた。当時は国家権力の象徴であった東大寺の造営や、中国からの乾漆技術の輸入、さらにまたインドからの塑造の技術の吸収に、すべての力が結集させられたときであった、とみるのが妥当であろう。
 ところで、奈良時代に木彫がまったく影をひそめたとみるのはあたらないと思う。なぜなら、多くの国分寺、国分尼寺では金銅仏、乾漆仏、塑造仏に混じって、木彫仏が配置されたと考えられるからである。仏教説話集の『日本霊異記』の中にも、この時代に、地方の山寺やお堂に木彫仏を安置したり、どこかで見出した木彫仏を納めた話がいくつか見られる。
 例えば同書下巻第三十話には、木彫に全生涯をささげた老僧の話がのっている。
「紀伊国名草郡能応寺の僧に観規という人がいた。彼は聖武天皇時代(七二四~七四九年)に釈迦の丈六像とその脇士の木彫をつくりはじめて、宝亀十年(七七九年)に同寺の金堂に安置した(完成までに三十~五十年を要したことになる)。のちにまた発願して十一面観音の木像、高さ十尺ばかりのを造りはじめた。しかしまだ半分も造り上げないのに、老衰がひどく八十余歳で命をとじた。ところが二日後に生きかえり、仏師に『私は運悪く、命が尽きて観音像を彫り終えることができずにしまった。どうかあなたのお恵みで、聖像彫刻を仕上げてほしい』と頼んだ。仏師がそれを引き受けると、観規はたいへんよろこび、その二日後ふたたび命を絶った。やがて仏師は遺言通りに、造りかけの十一面観音像を完成して能応寺の本堂にすえた」というのである。この仏像がどんな木で彫られていたかは明らかでないが、右の例からでもわかるように、木彫仏は日本中のどこかで、絶えず造りつづけられていた、と考えるのが実情に近いように思う。
 そのことを裏付けるには、当時の木工技術の水準の高さを示せばよいであろう。その一例に東大寺三月堂の不空羂索観音の光背がある。ご存知の通りこの像は天平時代を代表する傑作の一つであるが、光背は三重の楕円形で構成され、独特のざん新な意匠をもっている。この楕円はヒノキの細い割材を数層重ねて接着した曲木でつくられている。現在の言葉でいえば積層材または成形木材とでもいうべきもので、この事実だけでも、当時の卓越した技法をうかがうことができる。正倉院におさめられている多数の木工品をみても、適材を適所に使い分けるこまやかなセンスと、水準の高い加工技術のあったことがよくわかる。要するにこの時代は、優秀な木工技術はあったけれども、それを木彫に発揮する機会に恵まれなかった、とみるのが妥当であろう。
 ここで一言つけ加えておきたいのは、奈良朝の文化は私などにはとても理解できない面がある、ということである。先年京都の三十三間堂で仏像の修理があった。ここには千一体の仏像が安置されているが、修理には前後十年もの歳月がかかっている。それでも一年当たり百体という数字になる。修理だけで十年もかかるとしたら、はじめから作るのはもっと大変だったに違いない。彫刻師も膨大な数が必要だったであろう。 三十三間堂一つでもそうだとすれば、奈良朝の文化財をつくるには、どれほどの技術者がいたのだろうか。交通も、通信も、資材の輸送もままならぬ時代に、東大寺の大仏一つをつくるのも大変だったろうが、その建物をつくるのはもっと大変なことだったろう。それなのに、東大寺にとっては周辺部にあたる三月堂でも、建物は素晴らしいし立派な仏像がたくさんある。正倉院の見事さはなおさらだし、戒壇院の仏像一つをとっても、あの技術レベルは抜群だ。加えて当時は東大寺以外にもたくさんの寺院が建てられ、仏像が彫られていた。遠く唐に留学していた人も多かった。海を渡ることが当時どんなに困難かは想像に余りあるところである。それらを考えるといったいどれほどの技術集団がどのような活動をしたのか、私にはますます分からなくなってしまう。いずれにしてもこの町代は想像を超えた膨大なエネルギーが結集されたときであったことだけは間違いない。そういう背景を考慮に入れながら用材の移り変わりも考えていく必要があると思う。
*(上)東大寺三月堂の不空羂索観音像*(左)不空羂索観音の光背のつくり方