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第4章 白木の肌と日本人の美意識

3.金属から木材へ

 平安時代はおよそ四百年にわたるが、それはさらに、遣唐使の廃止をきめた寛平六年(八九四年)ころまでの「初期」(約百年間)、後三条天皇が延久元年(一〇六九年)に藤原氏の権勢の抑止策を打ち出したころまでの「中期」(百七十余年間)、院政と平氏時代の後期(約百二十年間)に分けられる。文化史的には「前期」が貞観時代、「中期」と「後期」が藤原時代にあたっている。
 さて貞観期に入ると、仏像は大部分が木で彫られるようになり、やがて平安中期ごろから、用材はほとんどヒノキに限られるようになる。この時代における木彫の興隆はまことに顕著で、その前の天平期とはまさに対照的である。
 平安時代に入って、奈良時代の金銅、塑造、乾漆が衰え、木彫が急激におこってきた理由について、美術史家野間清六氏は次のように述べている(野間清六『日本美術大系Ⅱ・彫刻』昭三四)。
 「奈良時代は仏教の黄金時代で、仏像の製作にも材料と手間を惜しまず、相当に国費を浪費した。
 この新しい時代(平安)は、それの反動として節約政策がとられた。東大寺大仏は輝かしい時代の金字塔ではあったが、国の銅を使いつくしたとの非難も受けた。平安時代に鋳造製作がほとんど停止されたのは、何よりもよくこの間の事情を伝えている。乾漆仏が衰えたのも、それに用いられる漆が高価であり、また漆が乾くのを待ちつつ製作してゆく過程には、多くの手間を要したからである。塑造はそれにくらべると材料も得易く、施工も簡単で、地方の造仏にもしばしば用いられた技法であったが、別な信仰的立場から衰えた。
  平安時代の密教において礼拝される仏像は、神秘的な力を蔵することが要求された。自然、材料にも清浄なものとか、霊性のあるものが期待された。その点で塑土は精選されても、いたるところから得られる材料であるところから、卑賎に見られ、衰微の大きな原因となった。これに対して木は最も清浄な素材として、新しく見直されるようになった」 たしかに金銅、塑造、乾漆の衰えた事情は野間氏が説かれるとおりであろう。しかし一方で、木材、が彫刻材料の中心になり、なかでもヒノキがクスノキに代わって絶対的な地位を占めるに至った理由については、なお明らかではない。それについてもう一歩踏み込んで問い直してみたいと思う。
 この問いをさらに分析すると、二つの点に集約することができると思う。一つはなぜわが国では木材以外の材料が、彫刻用材の主流になれなかったかということであり、もう一つは、木の中ですでに絶対的な地位を占めていたクスノキに代わって、なぜヒノキが選ばれたかということである。以下それについて私見を述べる。
 第一の問題は、日本民族と木とのつながりを考慮の外においては答えはでてこない。すでに有史以前からの長い歴史をもつ土偶、埴輪の古い塑造も、飛鳥末期から輸入された乾漆も、ともに奈良時代を最後にして衰えていった。金銅造りの技術も飛鳥初期に大陸から渡来し、仏師止利によってその様式が確立した。そして奈良時代に入ると、官営の仏所が東大寺の大仏をはじめ、多数の金銅仏をつくり、その製作に力を入れて技術の発展をはかった。それにもかかわらず、金銅もまた定着しないで、平安時代を待たずして衰えていくことになった。東大寺の大仏で見せたあのすばらい鋳造技術は、七百年後の室町時代には、全く退化してしまった感じさえもする。日本民族と金属との緑の薄さを、ここでも知らされる思いがする。
 石にいたっては全く姿を見せていないわが国では良質の石を産する地方でさえも、石垣までは作ったけれども、石の家というのはまだ一軒もつくられていないのである。
 こうした理由はなぜであろうか。たしかに日本は鉱物資源に乏しい有史以来の資源小国であった。だが金属の入手が容易でなかったにしても、あれ程までに芸術的な高まりをみせた金銅仏が、もしわが国に根づくべき性格のものであったなら、いかなる制約があったにしても、あのように簡単に見捨てられることはなかったはずである。とすれば金属から木に転換させた原動力は、木に特別の深い愛着をもつ民族的性格による、と考えるのが妥当であろう。
 日本民族と木のつながりを、その美意識と精神構造から論ずることは、専門外の私のよくなし得るところではないが、長與善郎氏の『東洋の道と美』を読むと大変興味深いことが書いてある。氏は西洋文化の金属的な性格に対して、東洋文化が植物的な性格をもつことを述べたのち、「支那の五行説において、東が木性、色は青(竜)、西は金属で色は白(虎)等々となしていることは、土性なる中央-中国を、漢民族のもっとも尊ぶ黄色となすことに基づいた民族の唯我独尊心理以外、別に根拠はなかったであろうが、偶然か否か、感じの上において首肯し得るものがある」と書いている(長與善郎『東洋の道と美』昭一八)。
 たしかに渡来仏を模倣する過程で、金銅仏をつくりはしたが、それは日本人には本質的な親しみの持てる材料ではなかったようである。考えてみると日本では、長い歴史の中で金属は武器と仏教用具以外にはあまり使われることがなかった。
 日本人は器用だから、金属でも十分に使いこなす力はあった。だが生物材料に対し、そして木を生かす技術に対して、より一層の魅力を感じたとみるのが妥当な判断であろう。
 これを心情的にみれば、豊富な木材資源に恵まれ、木の家に住み、木を使ってきたこの国の人たちが、金銅と漆と粘土のけんらんたる文化の後に、ふたたび温かくて柔らかい木肌に接して、懐かしさと落ち着きを覚えたということである。これはきわめて自然の成り行きであったとみてよかろう。* ヒノキは立木のときも気品がある。貞勧時代になると、クスノキに代わってヒノキが登場した。