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第5章広葉樹像の系譜と大陸との交流

彫刻用材の流れ

 以上に私は、貞観時代の彫刻の中の針葉樹系の木肌は日本民族がみずから探しあてたものであること、一方、ケヤキ系とサクラ系の木肌は、中国からの渡来仏を源流にしてわが国で流行したもの、という想定に立って議論を進めてきた。その関係をまとめると左上に示す系統図のようになる。その中に書いた広葉樹材の流れは、平安中期以降になるとヒノキの主流の中にまったく溶け込んでしまうことになる。後の桃山時代になって城郭建築にケヤキが現れてくるが、それも城郭の分野だけに限られていた。そして次は、明治の文明開化の時代が来るまで、広葉樹の木肌は日本人とかけ離れたところで、静かに眠っていたのである。桂離宮の新御殿にある桂棚は、広葉樹が、十八種類も使われていることで有名だが、あれは置物的な工芸品として作られたもので、生活の中で生きてきた木の使い方ではない。日本人はやはり白木の針葉樹に囲まれて暮らすところに、やすらぎを覚えたのである。
 なおここで清涼寺釈迦像を調査したときの植物系の資料について付記しておこう。この像は等身大で胸部の背面に蓋があり、胸郭にあたる胎内に人体の内臓模型をはじめとする多数の宝物が収蔵されていた。それらについては塚本善隆博士の『嵯峨清涼寺史 平安朝編』に詳しいので、それを参照していただきたい。収納物の中に樹木の葉が一枚と樹実を百八個つないだ数珠が含まれていた。一緒に出た記録には沙羅樹葉一、数珠一と書かれていたので、それに当たるものであることが分かった。 蓋は本体と同じ桜桃であり、蓋と本体との間にはさまれていた楔も同材であったところがらみて、胎内は造像以来はじめて開かれたものであることが判明した。なお樹葉と数珠は元大阪市立大学教授三木茂博士に鑑定していただいたが、数珠は中国産のシナノキTillia sp.の実であることがわかった。また樹葉のほうは先端が半分ほど欠けていたために、識別に苦労されたが、灰像法(試料を焼いて残った灰によって調べる方法)を応用した結果、サカキ属Cleyeraのある種のものであると判定された。そのことから、当時中国で沙羅とよんでいた樹木についても、およその見当をつけることができたのである。
 なおここでボダイジュとサラノキについて満久崇麿氏の説を引用すると次のようである(『木のはなし』昭五八)。日本でボダイジュ(菩提樹)とよぶシナノキ科の植物は、釈迦がその樹下で悟りを開いたというクワ科のインドボダイジュとは全く別の木である。おそらくインドボダイジュのない中国で間違えられ、そのまま日本に伝えられたのであろうという。またサラノキ(沙羅双樹)とよぶツバキ科のナツツバキも、本物のフタバガキ科のサラノキとは全く別物であるが、いまは、サラノキで通用している。印度のサラノキは災難よけの縁起のよい木として古くから尊ばれ、重くて強く、耐久性があり、ヒマラヤスギ、チークとならぶ有用樹種である。『平家物語』の盛者必衰の理をあらわすサラノキの花の色は淡い帯緑黄色であるという。
*木彫の用材の系統図